さらば!テキサスブロンコ「テリーファンク」
本来は8月31日のテリーファンク引退試合の日に記事を更新するつもりでしたが
まさかの悲報がネットニュースに。。。。。。。
まさか、引退試合の記事を書いていたのに
体調が悪く痴呆症も発症していたのようなので気になってはおりましたが。。。。。
ご冥福をお祈り申し上げます
ランチ終了後に1分間の
黙とういたします!
事の発端は【IWGP】潰しだった?!
本日は2023年8月31日ですが、その今から丁度40年前
1983年8月31日は当時の小中学生は夏休み最後に日でしたが
その日は「テリーファンクの引退試合の日」でありました
正確に伝えれば1度目の引退試合で、この方が引退・復帰を何度も繰り返すの見て
きっと大仁田厚も自分も「テリーがいいなら自分もいいんじゃぁー」と思ったのでしょう
その引退を発表したのは1980年10月なのでおよそ3年前だったそうですが
自分は当時はプロレス事情には全く関知しておらず
82年頃から熱心に見るようになったので
当時の倉持アナが「来年にテリーの雄姿は見られません」
みたいなことを言っておりましたがその伏線があったのも知る由もなく
1983年8月31日「蔵前国技館」で正式に決定
当初は自らの誕生で6月開催だったのを夏休みにスライドして、何と3日遅れながら日本テレビでゴールデンで中継。令和の時代なら絶対ありえませんね
当時の白熱ぶり見れば誰もが引退信じておりました(笑)
そして、この3年後に、ライバル団体新日本プロレスが「IWGP」と称して
世界のあらゆる強豪レスラーを招いて真の世界一のベルトを競うというのがおおよその趣旨
純粋だった?小学生の自分には古館アナの
「IWGPのベルトは時価1億円」も本当に信じておりましたし
そもそも何でプロレスにはチャンピオンが多数存在するのか
そんな不可解・理不尽をこの「IWGP」によって
リアル・チャンピオンが誕生とのプロセスですが
結果的には、通常シリーズのリーグ戦を開催
(確か前年の方が豪華だった印象が)
更に、アントニオ猪木のビジネスの金策から
年々ベルトに添えつけてある宝石がなくなったなんて
今となっては都市伝説なのか笑い話ですが
当時はのプロレスファンは本気で世界で誰が一番強いを渇望し、その熱量は半端ないので全日本プロレスも対抗策となったのが、「テリーファンク引退試合」だったのです。
元祖引退興行ビジネス?【真夏のテリーファンク引退狂騒曲】
引退試合の前のシリーズから「テリーさよならシリーズ」が開催
テリーファンクはどんなにファンが殺到して衣服や髪を引っ張手も
嫌な顔を見せない「神対応」
この方はとは正反対の対応です(笑)
引退間際の前年ぐらいからは女性ファンのチアガールも登場するほどですが、この方たちは自分より年上のなのできっと還暦を迎えているのでしょう。
自分も当時は最後だと思い。当時の横浜文化体育館でシリーズがあったので、お年玉を使わずこの日のチケット代にして観戦。
40年以上前の試合で、小学生だったので全く記憶にありませんが、確か、上田馬之助との試合だったのですが場外行ってはい終了だったと思います(笑)
でも、1年後にカムバックするなら
お年玉返せよと当時は後悔したものです(笑)
俺様ことアブドーラ・ザ・ブッチャーが新日本プロレスへと移籍してから、テリーファンクのライバルは大学の後半スタンハンセンへ
ハンセンの「テキサスの化石なれ」は有名なセリフです
引退試合前に行われたシングルマッチではロープ首にぐるぐる巻きにて本当に殺し合いしているのかと思ったものであります。
確か、当時の中継も途中「画面ではお見せ出来ません」みたいになって、静止画でしばらく続いていた記憶があります(間違いならすいません)
そして、「テリーさよならシリーズ」が終わり8月の最終週に引退試合のシリーズにテリーが登場でしたが
本当に夏休みだったこともありスポーツ番組などにも出演して、当時は日本テレビ出向の方が社長をされているのでテレビ局のバックアップも今で考えられないぐらいであります。
テレビに画面にかぶりついてなんて昔は表現しましたが、その日のテレビ中継に1秒たりとも目を離さなかった記憶が
引退理由が「ひざの故障」だったのですが
最後は、トップロープから「ひざの故障」を顧みず回転エビ固めでフィニッシュ
昭和のプロレスではフィニッシュで使われましたが
90年代にはほぼフィニッシュ技にはなっておりませんでしたね
当時の相手は普通なら「ハンセン・ブロディ」なのですが、この2人だとフォール勝ち出来ないので
当時若手の「人間魚雷テリー・ゴディ」が負け役に
でも、本当に最後は感動したのを40年前なのにここまで記事出来るので、素晴らしい引退試合だったと思います
正し、「これが本当のラストマッチ」だったらですが(笑)
試合終了後に館内のライトが消されて最後のファンク雄姿をファンは刻みます
そして伝説のマイク
「フォーエバー、フォーエバー」
ですが、当時は小学生で自分で言うのも何ですが勉強は全くなので、英語など「ディスイズ・ペン」ぐらいしか知らない有様
なので自分には「フォアー、フォアー」としか聞こえず、当時はビデオ録画機も30万円ぐらいで金持ちの家庭しか所有不可能で、ましてYouTube動画もないので後に「フォーエバー」と確認いたしました。
試合後、当時は採用されていなかった試合後退場ごのテーマ曲。これが、また最後の余韻を味わうには最高の演出でありました。
この演出はWWF(当時)が90年に日本興行の際取り入れて、日本の団体にも定着した記憶がありますが正確ではありません。
ですが、その1年2か月後に復帰。
一応、ハンセン・ブロディに制裁されてのリベンジでしたが。せめて、3年後ぐらいなら許されたかもしてませんが時期が短すぎましたね。
その後は、FMWで大仁田とデスマッチやったりで
再び脚光を浴びるようになるので、テリーファンクは
「プロレスをやるために生を受けたのでしょう」
でも、しつこいようですが
お年玉返せよ!
【番外編】当時は幸せな時代だった?
1983年8月31日 蔵前国技館
「ドリーファンク・ジュニア、テリーファンクvsスタンハンセン、テリー・ゴディ」
何度も記事にしておりますが、試合開催日は8月31日で、テレビで中継されたのが、9月3日の土曜日19時か19時30分からでした。
と言うことは、今の時代なら「結果知ってるんだから大騒ぎし過ぎだろ」と突っ込みされる場面なのですが
当時は、インターネットもなければ動画でアップするなんてあり得ず、新聞やスポーツ新聞はプロレス記事は全くなく、東京スポーツが唯一の情報源ですがコンビニもなく小学生が新聞購入ともいかず
(今の時代ならエロ記事あるから販売も不可能ですね)
当時の小中学生はほぼ夏休みは8月31日までで始業式が9月1日で、その日は関東大震災があった日なので始業式して防災訓練して終わりが通常
で、クラスメイトと顔合わせても誰一人として昨日(8月31日)の試合結果を知らず、テリーがハンセンにフォール勝ちしたらしいとか話が活発に、無論、テレビ放映される当日まで自分は試合結果を知らずライブ感覚で観戦。
3日遅れで放映なのでリアルタイムで視聴した感覚でしたが
「令和の時代なら絶対に不可能です!」
本日記事を書いていて、この昭和のほのぼのとした情報伝達のおかげですが、今のように同じこと思っても勝手にスマホに情報入ってしまうのも便利なのはいいですが、何でも早く知りすぎるのもいいものなのかと考えてしまいます。
自分が好きなレスラー大半がお亡くなりに
ドリー・テリーのファンクスには
1日でも長くお元気でと思う反面
ドリーの奥さんは何とかしてくれよと(笑)
とんでもない悪妻らしい。。。
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