【1990年世界最強タッグ決定リーグ戦】馬場・アンドレ組は優勝したのか?
11月下旬から12月10日前後まで毎年全国各地で熱戦を繰り広げていた「世界最強タッグ決定リーグ戦」昭和のおっさん世代には暮れの風物詩として未だに記憶に残っておりますが、残念ながら21世紀に入ってからの最強タッグへの知識はほぼなくかつてのように全国行脚して開幕前からメンバーや優勝予想していた頃が懐かしいものであります。
前回は、昭和時代の「世界最強タッグ決定リーグ戦」名勝負として勝手にランク付けしました。
独断と偏見ですのでご了承ください!
1990年代末ぐらいまで毎年楽しみにテレビや時には優勝戦を日本武道館まで足を運びましたが、その最大のミステリーと言うか謎は1990年この年は全日本プロレスにとっては最大の危機を迎え、某メガネ会社がプロレス界へと参入して全日本プロレスの選手の大変を引き抜きます。
当時は、本当に全日本プロレス潰れてしまうのではと思ったものですが、奇跡的というか逆に当時の超世代軍(三沢・川田・小橋・田上※途中で脱退)らの若手の頑張りとジャンボ鶴田さんの驚異的な強さがクローズアップされてそこへ若手が挑む構図がプロレス的にもわかりやすく、そして懸命なファイトはファンを引き寄せて、この当時の暮れの最強タッグの時点では逆に人気を盛り返しておりました。
ですが、メンバーの大半が抜けたこともあり、参加メンバーがリニューアルされることに。
開会式だけでも感動ものです(^^♪
・テリー・ゴディ&スティーブ・ウィリアムス (21点)
・スタン・ハンセン&ダニー・スパイビー (20点)
・ジャンボ鶴田&田上明 (17点)
・三沢光晴&川田利明 (17点)
・ドリー・ファンク・ジュニア&テリー・ファンク (17点)
・ジャイアント馬場&アンドレ・ザ・ジャイアント (14点)
・アブドーラ・ザ・ブッチャー&ジャイアント・キマラII (12点)
・ジョニー・エース&小橋健太 (10点)
・ダイナマイト・キッド&ジョニー・スミス (8点)
・スカイウォーカー・ナイトロン&ブレイド・ブッチ・マスターズ (6点)
・ラッシャー木村&マイティ井上 (4点)
・ディック・スレーター&ジョー・ディートン (4点)
・ダグ・ファーナス&リッキー・サンタナ (2点)
前年と同じチームが1組もなく優勝予想も故竹内さんがコメントされていた通り「ゴディ・ウィリアムス組」が優勝候補ではありましたが、当時の全日ファンの最大の疑問は「馬場・アンドレ組」の扱いであります。
昨年からリングアウトや反則決着ほぼ絶滅していたので、数年前ならリングアウトや反則決着で得点調整可能だったのですがこの年はほぼ不可能。時間切れ引き分けはありましたが、「馬場・アンドレ組」で30分はほぼ無理なので、優勝争いと「馬場・アンドレ組」の成績は非常に謎に包まれておりました。
「世界最強タッグ決定リーグ戦」とは一体?
元々は1977年「世界オープンタッグ選手権」というタッグリーグでスタート。リーグ戦の発端も新日本プロレスがまたまた挑発して「シングルの統一は無理だからせめてタッグ」という発言をして全日本プロレスを挑発・イメージダウンを行います。
こちらにも記載しておりますが、1975年に再三挑発する猪木に馬場さん自らが「全日本プロレスのリーグ戦に参加して私と戦え」とやり返します。当然ではありますが当時両団体とも例えよろしくありませんがテレビ局の子会社のようなもので当時のテレビ局の力は絶大ですので、その意向に反してはましてはライバルテレビ局に貢献する行為など言語道断なので当然ですが猪木は参加を辞退します。
その報復措置で、今度はタッグ統一と言われて、全日本プロレスは相変わらずの黙殺を続けておりましたが、1977年の暮れにタッグリーグ戦であらゆる団体の参加を認めると参加を要望。当然新日本側は参加拒否。当時友好関係にあった国際プロレスが参加して開催されます。
元々、「暮れの興行は当たらない」「タッグリーグ戦の興行は成功しない」そんな負のジンクスはどこ吹く風で、伝説のブッチャーのフォーク刺しシーンでその人気が不動のものに現在まで開催されている日本いや世界最長のプロレス界のリーグ戦となっております。
馬場さんの著書などでも「暮れの最強タッグの興行は買わせてくれ」とプロモーターの懇願されたり「年末もち代シリーズ」と言われるぐらい盛況でそれこそ全国行脚して興行をしておりましたが、今は関東近郊へ遠征したら大都市をスポットで興行するようでスケールが小さくはなりましたが、現在(今まさに開催中)も続くリーグ戦なのです。
本当に「馬場・アンドレ組」は優勝出来のか?
この年(1990年)のリーグ戦は、「馬場・アンドレ組」が快進撃を続けます。当初は優勝するのではと思いながらも、流石に優勝はおかしいから途中でうまく負けて脱落するのだろうと思って迎えたのが大阪大会。
どうでもいい話でありますが、全日本プロレス中継が大阪での試合を実況する際は、こちらの竹山アナウンサーと言う方が行いますが、自分は最後までお顔を知らずに終わりました。当時は、技や選手が全く把握していないので「大阪版倉持アナ」と呼ばれてました。関西に在住した時も一度も見たことがなこちらも謎のままであります。
当時、優勝候補の筆頭でしかもバリバリの実力派コンビ。会場のお客さんも馬場・アンドレ組を圧倒的に応援完全な判官びいき状態で馬場・アンドレ組がタッチせずに入ってもお構いなしでありました(笑)
しかも、最後は馬場さんがゴディをファールしてしまいます!アンドレがちょこんとした蹴りでウィリアムスも吹っ飛んでしまいます(笑)
自分は、晩年の馬場さんの試合ではこちらが一番好きで何度も見るのですが、このリング上の4人は全て故人にレフェリーのジョー樋口さんや解説の竹内宏介さんも月日が流れるのは早いですが、
ここで、当時1番のコンビに勝ったということで、本当に優勝するのでは?との疑念が、そんな書き方すると野球やサッカーそれこそ同じ格闘技の相撲だって番狂わせあるだろうと思われますが、それが純粋に強さや実力だけ競えばの話で、申し訳ありませんが、当時の「馬場・アンドレ組」はほぼ顔見世状態でした。
この数日後に今はない横浜文化体育館でも興行が、当然ですが、馬場・アンドレ組が快勝してこの時点で全勝で、プロレスには格という他のスポーツのランキングとはまた違う格式が存在しており、もう馬場・アンドレ組に勝てる相手がハンセン・スパイビー組しかありませんでした。
当時の全日ファンの95㌫は優勝を確信、更に優勝決定戦前に決まるのではとの声も!
ところが中盤から終盤戦の11月30日にアクシデントが!
リングへ落ちる際に何と馬場さんが骨折をしてしまい全治6か月でリーグ戦は途中棄権となり結果的に「馬場・アンドレ組」の優勝はなくなりましたが、仮にそのまま参加していたら優勝していたのでしょうか?
結論から言えば、優勝なかったでしょう!
もちろん「たら・れば」の話ではありますが、恐らくこの試合「馬場アンドレ組vsファンクス」は両軍リングアウトはそのままだった気がします。確かに、前年から不透明決着は絶滅しておりましたが、この4人で時間切れや誰かがフォール負けするイメージがないので結果は同じだった気がします。
その後の札幌で、恐らくハンセン・スパイビー組が馬場さんからフォールを取って、「馬場アンドレ組」がマイナス4点となり。そうなると最終戦で「ゴディ・ウィリアムス組」が疑惑でしたが勝利してマイナス3点で優勝はそのまま順調だった気がしておりますが、もう30年以上前の話でここで出した選手大半がお亡くなりになったので真相は謎のままですが、こちらの動画で自分と同じ疑念ある方いてびっくりであります。
こちらの星取表と共に見ていただければ一目瞭然であります。こちらの動画作成者さんも同じで「馬場・アンドレ組」が優勝する疑念をお持ちで危惧していたようですが当時の全日ファンは優勝を期待しながらも優勝するのは対面上まずだろうと何とも複雑な思いで見ていた記憶が、でも、30年以上昔の話題をこれだけ深堀り出来るのはそれだけ当時純粋に「世界最強タッグ決定リーグ」を楽しみにしていたのでしょう。
本日も最後まで読んでいただきありがとうございます。
自分が観戦した試合は
馬場・アンドレ組vs巨人コンビで
何と馬場さんが一番小さいという
恐らく最初で最後の試合でありました
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